akiyo.jp

2005.6.21

デジタル・キノコの生える場所

以前、読んだ話より。
キノコの胞子というものは、とても微細なもので、空中に浮遊しているものである。それが、条件のいいときに菌糸となり、キノコとしての姿をあらわす。

その条件とは。例えばある場所に、通常撒かれることのないような物質(そこであげられた例は尿でしたが・・・)を撒いてみる。すると、それに刺激を受けた、いつもとはちがうキノコがワラワラと生えてきた、とのこと。

この話を読んだとき、なんだか建築に似ていると思った。ある敷地に安藤忠雄や内藤廣を撒いてみる。(失礼な表現をしてスミマセン!)すると、それに反応した建築が「生えて」くる。そう考えることもできるのではないか、と。

最近の私はコンピュータに向かっての作業が多い。それも、前提条件があるわけではなく、自分の中でモヤモヤとしているものを具象化するような作業。そして、ふと思った。「キノコはどこから生えてきているのか?」

「自分の記憶から」としか言いようがない気がした。それもかなり純化された状態であらわれる。それが面白くもあり、怖くもあり。モノを創っている人にとってはそれが普通なのかもしれない。ただ、私にとっては、少々違和感のあることだったのだ。

なにも、デジタルに限った話ではないかもしれない。それでも実体のあるものを創っている人は、多かれ少なかれ素材などから触発される部分があるのでは?・・・どうなんでしょう。このへんの話は是非聞いてみたいところ。

何にしても、宿主(?)の記憶を純度の高い状態のキノコとして効果的に発生させることが出来たら。・・・いいよなぁ。

【旧 Short Tripより 1999.09.01】

2005.6.19

タージ・マハール

両足のかかとの間隔を20センチくらい開いて
親指どうしをくっつけたとします。
土踏まずから親指にかけてのライン、
タージ・マハールのドームに
似ていると思いませんか?

【旧 Short Tripより 1999.08.28】

2005.6.19

定規を持つということ

私は「原初的なもの」が好きだ。
音にしても、形にしても、思考にしても、単純ではあるけれども、素直なもの。現代の常識で判断すると、全く検討違いなものもあるかもしれない。それでも、そこから発展する様々な可能性を感じさせられる。

恐らくそこには基準となるものがなかったのだろう。そこで、ものを判断するのは「相対」ではなく「絶対」だった。もちろんそこには個人差が生じる。そして、意志の疎通を図るために規格が作られる。長さを測るために定規が作られ、思考も「常識」とされる考え方に収束していく。

そしてそれが定着すると、逆に自分の中に情報をとりこむ時点で規格に対する「相対」で判断するようになる。記憶するにも記録するにもその方が便利だからだ。

「定規」を捨てることはできない。でも、物事を自分の中に吸収する時は「原初的」な見方をしていたい。そう思う。

【旧 Short Tripより 1999.08.25】