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2005.7.16

ちょっと前に読んだ本。ボルヘスの『砂の本』。
最近読みたいと思った本。カルヴィーノの『砂のコレクション』。

「砂」という言葉は「無数の」とか「数限りない」とか、そういったものの寓意につかわれることがあります。

その無数に近い砂の数を算出したというピュタゴラス派。数というドライなものを扱っているはずなのに、魔術的。

砂は眠りとも相性が良いようです。
「砂の中で眠りにつく。気が付くと何百年もの時が過ぎていた・・・」
こんな話、ありませんでしたっけ?

「時」にも関連深いのでしょうか。何百年もの時が経つこと、にも関係があると思いますが、ここでも時の無限性に結びついているのかもしれません。

そういえば、砂時計という道具がありましたね。
まさに、「無数」が流れていくことを視覚化する装置。部分を切り取ったものだけに、終わりも見えてしまいますけれども。

人の記憶はいつしか断片化していく。砂に似ています。

記憶を「砂」として実体化したならば。

それは砂漠のような黄土色のものではなく、花崗岩の灰色に近い気がします。

灰色といっても、全体的に均一な灰色ではなくて、黒っぽいものと白っぽいものが混ざり合ってできる灰色。そして、それぞれの粒が温度を持っているのです。程よくお日様のぬくもりを感じるくらいのもの。熱くて触ることのできないもの。永久凍土の中から出てきたように冷たいもの。それらが混在して、漠々としている状態。

砂のように、とりとめのない話をしてしまいました・・・。

【旧 Short Tripより 2000.03.29】

2005.7.12

人には目に見えないたくさんの穴が開いているのを知っていますか?

そこから引っ張り出しているのです。
何を?
表現したいものを。

音楽の穴。話術の穴。形の穴。文章の穴。
原形は同じでも
どこを通るかで形は変わってくる。

穴が大きいと
中身を引っ張り出すのは楽になる。
それが表現力。
穴よりも中身が大きいと?
引っ張り出すのは難しい。

すこしでも穴を大きくしたい。
でも、穴が大きくなっても
引っ張り出すものが小さかったら

それはそれで悲しい・・・。

穴が小さいのに
大きなものを引っ張り出したくなったら?
ハコが壊れてしまう。
でも
それでも出したくなる時もあるのかもしれません。

【旧 Short Tripより 1999.10.18】

2005.7.11

感覚浮遊感

音楽を聞いている時。絵を見ている時。
かなり集中している時には、その作品を感じるための機能だけが、宙に浮いているように錯覚する時がある。目だけ、あるいは耳だけ、といったように。

「物を持っている」とか「立っている」という感覚はない。呼吸をしていることも忘れてしまいそうになる。逆に、どう息を吸っていいかわからなくなって窒息しそうになったこともある・・・かな?

ふと、思った。
街行く人々の、意識的に使っている感覚だけが視覚化されたら?

おしゃべりする、口、くち、クチ。
きょろきょろと動く目。

そのうち、ぬうっと手がのびる。

・・・妙なものを想像してしまいました。

【旧 Short Tripより 1999.12.03】